初めての住宅用太陽光発電所
桑野太陽光発電所の紹介
ー人類を救う太陽光発電に人生をかけた男ー
人とその道-2
3)石炭から石油への転換期に遭遇―
1950年の後半になると人類のエネルギー源は、石炭に変わり、使いやすい液体の石油へとエネルギー源は変化していった。これに伴い、日本でも石炭需要が落ち込み始めていた。つまりエネルギー源の世代交代が起こり始めたのである。日本で大規模な炭鉱である九州の大牟田にあった三井鉱山では会社が経営合理化のために大量の退縮勧告を会社が出したため、同社の労働組合との間で大規模な労働争議が起き、113日間のストライキが続き、社会問題化した。
当時、桑野が在籍していた熊本大学は、九州の大牟田に近かったので、感心を持っていた。この争議は会社側の譲歩で、集結するが、エネルギー転換の流れは変わらず、これら契機に日本や世界の主たるエネルギー源は石炭から石油へと移って行く、エネルギー源の世代交代である。
桑野は学生であったので、これらの争議には関係しなかったが、目の前で、エネルギー源の世代交代の大きな変化とそれに伴う争いを目の前にして、歴史の転換がどのように起こるかを心の中で痛烈に感じた。
3.三洋電機を選んだ理由―
大学の4年の時、就職先を決めなければならない時期が来た。大学の同僚は大学の専門である化学系の会社を選んだ。桑野は幼少の時から、電気に興味を持ち、自分でラジオを制作したり、アマチヤ無線を愛好していた。その時代、三洋電機は創業間もない新興電気メーカーで噴流式の洗濯機などの発売し、注目を集めていた。当時、始まったテレビ放送では米国の人気番組で社会正義派の外科医の「ベンケーシー物語」をスポンサーして、放映していた。桑野は本来の化学会社ではなく新興電気メーカー三洋電機を選択して入社する事を決める。
1)若き研究者の失敗
―入社後の配属は思いもよらない研究所―
1963年4月、大阪府守口市の市民会館で開催された三洋電機の入社式は、新入社員が全国各地から集まり活気があった。桑野もその中に混じって、やる気に満ち溢れていたが、自分の配属先を知らされた瞬間、思わず耳を疑った。洗濯機部門ではなく、中央研究所だったからだ。
桑野は大学4回生の6月、三洋電機から就職の内定通知を受け取ると、夏休みに滋賀県大津市の琵琶湖畔にある三洋電機滋賀工場の洗濯機製造ラインで研修を受けた。三洋電機製の二層式洗濯機には興味があったし、何よりも滋賀工場の立地環境が気に入っていた。それだけに入社後もここで働くものと思い込んでいたのだ。
さんさんと照る太陽と群青の空の下、木々が織り成す緑のグラデーションは、遠く離れた故郷を連想させる。一面に広がる琵琶湖を臨むと、開放感に満たされ心が和んだ。テンポの速い関西弁にはなかなか慣れず、都会の喧騒にも馴染めなかった桑野も、滋賀工場近隣の環境には妙に親近感を覚えた。週末は琵琶湖でおもいきり泳げば、仕事のストレスも吹き飛ぶだろう。
だが、配属先は大阪府枚方市の中央研究所。悔やんでも仕方がない。気持ちを切り替え、関心を仕事に向けた。
三洋電機中央研究所は桑野が入社した63年に開設する。60年代前半は、米国の製品を真似るのではなく、日本の技術でモノをつくろうと、メーカーが研究に力に入れ始めた時期だ。電機業界でも研究所ブームが起こり、三洋電機も例外ではなかった。
2)山野所長との出会いー
中央研究所は、三洋電機技術部の社員70人と桑野を含む新入社員70人の計140人体制でスタートする。このとき、初代研究所長に就いたのが、後に三洋電機代表取締役副会長を務めた山野大だった。山野は、京都大学大学院理学研究科博士課程(湯川秀樹博士の後輩)を修了後、三洋電機に入社した異色の経歴を持つ。専攻の物理学で博士号を取得、研究者としても異才を発揮したが、32歳の若さで140人の研究員を束ね、後の三洋電機の技術基盤を構築するなど、リーダーとしても秀でた才能を持ち合わせていた。
その山野は、若い研究員との対話を好み、桑野にもこう語っていた。「何でもええ。好きなことをやったらええ」。若い社員は経験こそ乏しいが斬新な発想がある。研究開発にその力も活かしたかったのだろう。
この方針は桑野に合っていた。当時、桑野は固定観念に捉われず、敢えて本流と逆行することにも挑んだ。後にアモルファスシリコン太陽電池の開発に成功したのも、この自由な発想が原点だったのかもしれない。
当時のエレクトロニクス技術は、結晶シリコンからトランジスタが開発され、さらにIC(集積回路)の開発へと発展していた時代である。三洋電機の研究員も、単結晶シリコンの開発に着手するものが多かった。
3)異端の物質アモルファスへの挑戦―
しかし桑野は、結晶ではなく非結晶、すなわちアモルファスで何かできないかと考えた。2人の部下と、硫黄(S)やセレン(Se)、テルル(Te)といった化合物半導体材料を用いたアモルファス物質で、電子デバイスをつくる研究を始める。やがてアモルファス半導体は、ある電圧をかけると、オン、オフの切り替えが可能で、スイッチング素子に応用できることが分かった。「これは蛍光灯に使える」。桑野の直感が働いた。
当時の蛍光灯はグロー球と呼ばれ、スイッチを入れてから点灯するまで数秒の点滅時間を要した。このグロー球をアモルファス半導体のスイッチング素子で代替したらどうかというのが桑野の発想で、予想通り蛍光灯がパッと点くようになった。
早速、照明機器事業部へ走り、新製品として開発を本格化するように提案した。「我々が開発したスイッチング素子を使えば、瞬間的に蛍光灯が点くようになります。この技術は画期的で、多くの消費者のニーズを満たすことができるでしょう」。
しかし、間髪入れず照明機器事業部長が、「桑野さん、では、このスイチング素子のコストはいくらですか。現在のグロー球は20円ですが、これと同等のコストに抑える目途は立つのですか。耐久性の確認はできていますか?」。
桑野は面食らって返す言葉が見つからなかった。新しい材料を使って新しい製品をつくったと、誇らしげにいた自分が恥ずかしくなった。
4)この失敗で多くを学んだー
新製品とは、コスト、性能、耐久性すべてにおいて、既存の製品を上回るものでなければ、消費者のニーズに応えることはできない。以後、肝に銘じるのであるが、その日は、京阪光善寺駅から丘の上の研究所に向かう坂道をとぼとぼと歩いて帰った、いつもより険しく感じた。入社7年目、20代最後の夏はとても暑かった。
桑野は、ひたすらアモルファス半導体の研究に没頭した。スイッチング素子への応用は、泡沫の夢と消えたが、光記録装置に利用できないかなどとその後も研究を続ける。異端の研究テーマとされたアモルファス半導体であったが、桑野にとっては人生をかけた大仕事だった。
2人の部下と研究室に篭り、実験を繰り返す。暗中模索の状態が続き、心が折れそうになることもあった。それでも、コスト、性能、耐久性すべてにおいて、既存の製品を上回る新製品。これをアモルファス半導体技術で実現する。そう言い聞かせて奮い立たせた。
5)アモルファスの基礎研究で大学人が励ましてくれたー
世の中にも桑野と同じく新材料挑戦する仲間がいた。当時、大学でも新材料であるアモルファス物質の研究が活発に行われていて、その研究会として、アモルファスセミナーと称した研究会が設立されていた。中心メンバーは大阪大学濱川圭弘教授、産総研(電総研)田中一宣氏、京都大学米沢富美子、広島大学広瀬全孝、岐阜大学仁田昌二らで、桑野も参加した。この研究会は新材料に挑戦する、新進気鋭の研究者が集まり、泊まり込みで、激しいデイxスカッションをする、当時としては珍しい研究会であった。中心メンバーは民間企業出身の桑野を温かく向かい入れて、基礎研究から桑野等の取り組みを支えてくれた。特に大阪大学の濱川は折れそうになる桑野をいつも励ましてくれた。しかし、成果が上がらない中での研究所長の山野に進捗を告げる定期報告は、心苦しいものがあった。
6)アモルファス半導体の研究を止めへんで!ー
「桑野君、もうええかげんアモルファス半導体やめたらどうや」。
桑野は山野の目を見据えて答えた。「いえ、アモルファス半導体からかならず新しい製品が出てきます。もう少し続けさせてください」。
山野はそれ以上、言葉を発しなかったが、桑野は十分重圧を感じていた。三洋電機に入社後、配属先が中央研究所と決まってから10年。研究開発に全力を注いできたが、成果が上がらない。自分は会社に貢献しているのか。常に葛藤があった。「もう潮時かな」、悩む日が続いた
そして、1974年の夏のある夜、桑野はついに決心する。アモルファス半導体の研究を止めよう。
突然、胸が締め付けられるように、寂寥感が込み上がった。硫黄(S)、セレン(Se)、テルル(Te)と対峙し、アモルファス半導体に情熱を注いだ日々が浮かんだ。まるで苦楽をともにした親友を失ったような、底無しの寂しさであった。その夜は一睡も眠ることができなかった。
翌朝、決心が揺らがないうちに所長に伝えよう。定期報告は明後日だが、意を決して、所長室へ向かった。ノックを2回鳴らすと、「どうぞ」。
山野の低い声に招かれて中に入った。所長室には、川向こうの大阪府高槻市・島本町がみえる、秀吉と明智が戦った大阪府島本町山崎の山並みが一望できる大きな窓がある。山野は椅子に腰掛け、この窓の外を眺めながら、思慮に耽っていた。いつもの光景である。
「桑野君、何や、改まって」。
桑野はドキッとした。すべて見透かされているような気がしたのだ。山野は一瞬にして空気を読む力があり、桑野もそれを知っていた。
山野は振り返り、ゆっくりと目線を上げる。喉元に妙な乾きを感じながら、桑野は重い口を開いた。
「所長。私は入社以来、この10年、アモルファス半導体の研究を続けてきましたが、今日をもって止めようと思います」。
桑野は山野が「そうか、君もそろそろ分かってきたか」と答えると思った。
山野は繭一つ動かさなかった。桑野の表情を確認した後、大きく頷き、再び窓の外に目を移した。しばらく沈黙が続く。そして太い声でこう返答した。
「わしはやめへんで。君がここまでアモルファスにこだわってきたのだから」。
桑野は耳を疑った。山野はてっきり自分がアモルファス半導体の研究を止めることを望んでいるものと思い込んでいたからだ。さらに山野は続ける。
「こんなに永く辛抱したのに止められるか、もっと頑張れ、アモルファスはやはり君がやった方がええ。だが、君はアモルファス材料を電子部品に使おうとしてきた、しかし、新しい時代が来ているぞ、アモルファス材料を電子部品の材料として研究してきたが、エネルギー材料として活用することを考えてみたらどうだ!」。
桑野は喜び勇んで、急いで研究室に引き返し、2人の部下にこういった。止めなくていいんや! アモルファスの研究を続けるぞ、もちろん苦楽を共にしてきた部下も大喜びであった。

主たるエネルギーが石炭から石油へシフトした(エネルギー革命)エネ管合格塾HPより

ベン・ケーシー(ヴィンセント・エドワーズ)(Wikipediaより引用

三洋電機(株)中央研究所
(大阪府枚方市)

当時の中央研究所長 山野 大氏

結晶とアモルファスの構造
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開発したアモルファス半導体
スイッチング素子

大阪大学濱川教授(中央)、筆者(左)

