top of page

物語:人類を救う太陽光発電に人生をかけた男

人とその道

1.プロログ

桑野幸徳はとても数奇な人生を送った。

熊本大学理学部を卒業後、三洋電機株式会社の中央研究所に配属され、研究所としての道を歩き始める。しかし成果のあがらない研究生活を送っていた。その後、太陽の光から、直接電気を得られる太陽電池に出会い、研究成果を上げる。多くの発明と事業化を成し遂げ、研究者として成功して行く。

 桑野の力が認められ、

 次のステップとして、ゼネラルマネージャーとして研究所長、研究開発本部長に任じられ、2次電池、半導体、デジタル技術の研究開発の総括責任者として、当時、勃興していた新技術を用いた製品開発推進した。

 その後、社命により、当時、赤字事業であった情報通信事業本部、セミコンダクターカンパニーの責任者を担い、事業の立て直しをはかり大幅な黒字化を達成する、つまり経営者として認められた。

 そして、三洋電機(株)の社長に就任する、デジタル商品や2次電池事業、産業機器事業の拡大、生産革新を推進して、事業の拡大と収益の拡大を図った。しかし、桑野の人生を暗転させる出来事が待っていた。桑野はその逆境をどう乗り越えたか「この人の道」を以降記述してみたい。

*この文章は雑誌「PVeye」連載されたものを許可を得て、修正・追記した内容で記述する。

なやみ2.jpg

2.戦争のさなかの幼年期

「バリバリ」、「ドカーン」。けたたましい爆撃音が、地鳴りごとく轟き、耳を突き刺す警報が鳴り続く。恐ろしさに身がすくんで動けず、母に抱かれて防空壕へ逃げ込んだ。その腕の力が尋常ではなく、兄姉の顔に浮かんだ怯えた表情から、幼心にも一大事だと分かった。桑野の幼児の原風景は、まさに戦時下の破砕した日本そのものだった。

 当時、桑野家が住居を構えた福岡県遠賀郡水巻町は、県北部の遠賀川の下流に位置し、稲作を中心とした農村地域だった。明治に入ると、石炭鉱脈が発掘され、石炭産業の町として栄える。しかし、1941年12月、太平洋戦争が勃発すると、長閑な田園も戦火を免れるわけにはいかなかった。隣接する芦屋町に、旧日本陸軍の芦屋基地が建設され、米軍の攻撃の標的となったからである。桑野家も、戦時中は頻繁に防空壕へ逃げ込み、恐怖に晒された生活を強いられた。

1)桑野が誕生したのはー

  桑野が誕生したのは、奇しくも開戦の年にあたる(1941年)。感じやすい幼少期を、戦争の渦中で過ごさなければならなかった。それが後の人生にどう影響したのか、桑野自身も整理できていないが、表しようのない脅迫観念と飢餓感だけが、いまだに脳裏から消えることがない。終戦を迎えても、貧しい生活は続く。常に空腹を抱えている育ち盛りの少年にとっては苦難の日々だった。桑野の家は母子家庭であった。15歳離れている兄である康徳は、年の離れた初めての弟を、まるで父親のように慈しんだ。

  やがて桑野は、戦後教育の第一期生として小学校へ入学する。軍国主義教育から民主主義教育への大きな変革の時代だ。軍事教練の先生による厳しい指導を受けた兄弟とは異なり、自由に伸び伸びと発言することを許された。それだけに、兄弟の間では価値観が対立することもあったが、兄は常に良き理解者だった。

ー大学への進学を断念か?―

 桑野が中学3年のとき、兄、康徳に進路の相談を持ちかける。「兄ちゃん。僕、工業高校に行こうと思うんやけど」。勉強は得意だったが、家が貧しいことは分かっていた。早く手に職をつけて、家族のために働く方がよかろう。きっと兄も褒めてくれるだろう。

だが、意外な言葉が返ってくる。「これからは勉強せんばいかん。お前は賢かけん、進学校に行かんね」。これはひとつの転機であった。それまでの迷いはなくなり、受験勉強に専念、県下有数の進学校である福岡県立東筑高等学校に見事合格する。

 高校入学時は、将来何に成りたいのか、明確な目標が持てなかった。とりあえず進学校に入学したのだから、大学進学を目指そう。ただ、それだけでは、なかなか勉強にも身が入らない。誰もが通り過ぎる思春期の悶々とした日々を送ったこともあった。

 しかし、それも束の間、高校2年に進級したある日、東筑高校の化学の授業で梅津先生に出会い、化学の魅力に取り付かれたのである。存在するあらゆる物質は元素からできている。それらが反応し合うと新しい物質に変わる。色が変わり、構造が変化し、まったく新しい性質を持つ。そして、その原理を探求すると、真理に触れることができる。手品の種明かしのように面白かった。〝化ける〟という本質が、理解を超えて桑野の感性に訴えかけてきた。

以来、桑野は化学者を志し、熊本大学理学部化学科に進学する。

 専門課程でプラズマ反応による新物質の創成を選んだ。このことが後の三洋電機でのプラズマ反応を用いたアモルファスシリコン太陽電池の開発に繋がるのである。​

2)山岳部でロッククライミング

 桑野の学生生活は必ずしも優等生ではなかった。経済的に恵まれなかったので週2回の家庭教師のアルバイトと奨学金で生活を送るのであるが、その一面、大学では山岳部に入り、阿蘇山の岩場で岩の登り、命綱一本でロッククライミングにも挑戦している。その時、青い空の中に燦々と輝く太陽があり、岩を登って行くと、その太陽に近づき、太陽が桑野にほほえみを与えてくれた様に感じていた、この時、桑野は自分が将来このエネルギーを太陽電池で使うことなど思いもつかなかった。

​ 続きへ

高校時代写真部.png
東筑高校時代写真部の所属
熊大時代白衣.jpg
​熊本大学実験室にて
熊大山岳部.jpg
​阿蘇山にて

© 1992 by Yukinori Kuwano. Proudly created with Wix.com

bottom of page